神明宮大祭の歴史

毎年5月第2日曜日とその前日に行われる神明宮の大祭は、「神明さん」と呼ばれ親しまれています。この祭りの起源については、残念ながらはっきりとしていませんが、少なくとも江戸時代中期に始まったものと思われるこの祭の変遷をさぐってみましょう。

承久のころ(1220年ころ)

「本社ができ、祭礼は初め八月十五日夜より十六日まで、氏子が集まって御神酒を供え、楽を上げて祭りをした。・・・(中略)・・・その後、祭礼は水無月にした」

(『能見村根元之事』・・江戸末期に書き写した文書で原本の時代は不明)

江戸時代中期(1750年ころ)

「例祭六月十五日なり、山車車輌出す、氏子町中を引きわたす、童児の舞などあり、美観云わん方なし」

(『参河国名勝志』・・いつごろ書かれたものか不明だが、江戸時代後期のものと思われます。
社殿が再建された寛永二年(1749)ころから始まったのではないでしょうか)

明治10年代

この当時、神明宮の祭礼は旧6月15、16の両日と秋の旧9月15、16日に執り行なわれました。

明治20年代

明治20年(1887)より、春の旧4月15、16日に変更された。秋は変わり無し。
27、8年ころまで秋祭りにも、打ち上げ花火や手筒花火その他いろいろな余興が盛大に行われていました。

明治40年代

41年、明治天皇より幣白料御下附につき、当日勅使を迎えるにあたって、この年より祭礼を新暦5月15、16の両日に行うこととしました。
42年、松本町の山車(二階建て塗り仕上げ)が売り払われました。(このころまで二階建ての山車が引き回されたのでしょうか?)
明治時代には山車は毎年出たのでなく、年によって山車も出るが、花火もあったり、芝居やら手踊りがあるということで、各町が競って多彩に催されたようです。特にこの当時は、町民有志による素人芝居は大正を経て、昭和8、9年ころまで続いたようです。(現在、境内にある小屋の設備は当時の名残です)

大正時代

大正4年、松本町では総檜白木造りの山車が新造されました。(昭和34年まで引き回されました)

昭和初期~終戦

この当時、祭礼の日には氏子の小学生は学校を休むことができ、他の同級生からうらやまれたそうです。御神輿渡御(おみこしとぎょ)が通る道筋の家々には、家紋の入った青と白の幕が張られ、祭り気分を引き立てました。また、二階以上の高い所からの見物は禁止されていたとのことです。(材木二丁目 水谷成人氏のお話)
昭和7、8年ころの松本の山車の引き回しは、お囃子は消防団が、踊りは町内の舞妓の出演で賑やかに行われました。しかし、この山車の引き回しも、戦争の拡大により、昭和11年を最後に中断されました。

終戦~現在

昭和23年の祭礼に、松本と能見の二台の樽みこしが出ました。
昭和27年、山車の引き回しを16年振りに復活。氏子地域内に止まらず、板屋町、康生、伝馬地区まで引き回しをしました。
この当時、本格的な山車を持たない町内では、俗にいう「底抜け屋台」を引き回しました。
昭和33年~35年にかけて、元能見南、能見北、松本が山車を新造しています。
昭和41年、奉賀者の不足から御神輿を小型トラックに載せることとし、馬に乗っていた神官も乗用車に乗ることにしました。
昭和49年、人夫に頼っていた「白丁衣」を厄年会で奉仕するようになりました。
昭和51年、元能見西が城北、柿田、末広に分離しましたが、53年までを独立猶予期間とし、54年に完全独立しました。
昭和53年より前日祭に境内で手筒花火を奉納。
昭和54年、トラックによる御神輿の運行を新製した御神輿台車での運行に変更。この年より城北、柿田のお旅所への巡行開始。
昭和57年より末広のお旅所への巡行開始。
昭和58年の祭礼より従来の「大年番制」を改め、「当番制」へと移行しました。

 (本稿作成については、前掲『まつもと』及び末広町の加藤広治氏の思い出を参考にしました)
なお、「能見東」・「福寿」・「西材木」・「末広町」の4町が神明宮の氏子であった時期もあるので、ここに紹介しておきます。